展示作品解説 高橋 宣之写真展:神々の水系
公開日:2022年4月28日
展示作品解説
壁面A
季節風にあおられる岩峰。すべてを拒絶した厳冬の四国山脈の姿である。見つめていると、とどまることのなく流れ行く時間を感じる。
厚さ3ミリほどの氷を写した写真である。天から降り注ぐ光のような小宇宙は、小さな氷のかけらからの贈り物。
山影に飲み込まれていく夕刻の集落である。11月の残照はどこまでもやさしく、温和である。
巨大な積乱雲が洋上に去り、月が出た。稲妻と、月光と、暗闇の底から響き渡るような遠雷の音が脳裏に残っている。
閉ざされた真冬の谷間で出会った氷の粒。五感を総動員して被写体を探せば、けっこう生の気配が見つかるものである。
壁面B
沈下橋が雪におおわれていた。美しいと思った。南国ではめったに出会えない光景を前に、人生の色添えのような時を感じた。
さびしさと、なつかしさに包まれた寒村に雪が降っていた。ふわりと落ちる雪を見ていると、体が重心を失うような錯覚をおぼえる。
ツル性の植物に付いた水滴が凍ったもの。氷結時の細かな結晶が虹色をまとい、まるで宝石である。
祭りの行列が過ぎてゆく。すぐ脇には小さな石碑があり「いののかみ この川ぐまに よりたまひし 日をかたらへば ひとのひさしさ」と書かれている。(椙本神社の秋祭り)
発光するシイノトモシビタケの傘のうらに、小さなトビムシを見つけた。ここは虫たちにとってのネオン街。きっと幸福の場所にちがいない。
壁面C
清流にレンズを向けると、揺らめく青い世界があらわれた。見つめていると、心も穏やか澄んでいくように感じる。わたしは水が美しいことだけで幸せな気分になれる。
夕暮れの原生林で出会ったオオミズアオ。蛾は逆光のなかで、淡い青磁色の光を放っていた。「美しすぎる」と思わず叫んでしまった。
壁面D
森の中でオオセンチコガネが死んでいた。風の仕業か、絶妙なバランスで横たわった姿は、生を全うした生き物の墓標のように見えた。
冬。仁淀川の川岸に一筋の光の帯が現れた。冷気による蒸発霧がオレンジ色に染まり、風景は神々しさを増していった。
渓谷の果てに出会ったカワガラスである。水中に顔をつけて一心に獲物を探す姿は、私の心に深く刻まれた思い出のシーンになっている。
月がのぼる時は、木の葉に付いた水滴の撮影がおもしろい。水滴の輪郭が月光におおわれ、中心部にさかさまになった月が映る。
神社の境内に大木があり、根本に淡雪が残っていた。パッチワークのような雪の模様は自然が創り出す正直なフォルムかもしれない。
海岸の潮だまりに高い空が映り込み、月があった。風のなごりだろうか、時折月が揺らいで、風景の奥ゆかしさを感じた。
流をさかのぼり樹林帯に入ると、ひんやりとした冷気が迎えてくれる。そこで青いキノコのロクショウグサレに出会った。まるで清流の色である。
桜が散ると、林のあちこちでヤマブキの花を見かけるようになる。木々の赤い芽吹きと、緑の下草。やっと春の封印が解けたのである。
へばりついたコケも、岩肌の風紋も、普段は見なれた他愛もないものである。しかし、そんな場所にも上質の光景が隠れているようだ。
ふとした風景に、たじろぎ立すくむことがある。たいていは遠い日の記憶に出てくるような場面で、薄暗く、風の通り道のような場所である。
春。林の中で眠そうな顔をしているオオコノハズクの幼鳥に出会った。新緑におおわれた樹々の中に、春がゆっくり流れていた。
壁面E
神が乗る輿をかつぎ、祭りの行列は11月の光のなかを進んでいく。この祭りが終わると、山野には冬の到来を告げる北西風が吹き始める。(椙本神社の秋祭り)
壁面F
高知県中部を流れる仁淀川は「仁淀ブルー」として全国に名が知られている。写真は澄み切った清流の輝きを切り取った一コマである。
路傍の石仏には観世音の文字が刻まれている。それにしても雨をしのげる屋根付きとは。さぞ観音さまも喜んでおられることだろう。
2月11日、ほぶすなのみことを祀った秋葉神社に向かって、200人ほどの行列が練り歩く。冬枯れの山道がひと時にぎわう祭りでもある。(秋葉まつり)
壁面G
月と虎の不思議さ。看板は過ぎ去った昭和という時代を思い起こさす迫力をもっていた。この香取せんこうは今でも売っているのだろうか。
道端にたたずむ仏たちの数はいったいどれ位になるだろう。過疎地では住人よりも石仏たちの方が明らかに多い。時代だろう。
廃校小学校の教室に天球儀があり、ほこりを払うと、鮮やかなブルーが現れた。アンドロメダ女王とアルフェラッツ 68光年の文字が読める。
崩れかけた廃校の内部はフォトジェニックな被写体にあふれている。地球と月の運行を教える器材はすでにさび付き、動かなかった。
寺に続く小道のわきに、仏を描いた石ころが置いてある。瓦に描く絵馬のようなもだろうが、石ころの仏の姿は初めてだった。
多分、九州かどこかへ行った時のお土産の品と思われる。布製の修道女はまばたきもせず、遠い昭和という時代をなつかしんでいるようだ。
それぞれの時代には独特の美意識と色彩感覚がある。金魚の泳ぐ水中の風景に当時の子供たちはどんなまなざしを向けていたのだろう。
床の抜け落ちた廃校の片隅で、埴輪のレプリカをみつけた。天空を見つめているその顔はどことなくエジプトのファラオのようでもあった。
古いラジオには二つのダイアルがあり、一つは中波、もう一つは短波が聞けるようになっている。当時としては最先端のラジオだったかも。
壁面H
カタツムリの殻のみで、魅力あふれる被写体になることがある。陸貝の端正な形に出会うと、私はその場にしゃがみこみ、長い時を過ごす。
神道には神像、神馬像などがあるものの、仏像のような多種多様な姿はない。それでも神楽などを通して神々の姿を知ることがでる。(池川神楽)
桜が散るころ、深山の渓谷の隅で繰り広げられる命の営み。ヒキガエルは神の仕業のように谷の一か所に集結し、数日で消え失せる。
森の奥のひそやかな場所でセンキュウのつぼみを見かけた。つぼみは精緻な設計図のようで、やがて巧な方法で腕を広げ、花を咲かせる。
これほどまでに原始的,呪術的な形相の面を見たことがない。子どもが見ると確実に泣き出してしまうだろう。これも神々の化身か。(佐婆為神社の秋祭り)
平家伝説の残る横倉山に神社があり、境内には数本の杉の巨木が立っている。常緑広葉樹林に囲まれたこの場所はいつも薄暗い。
壁面I
山間の小さな集落にお堂があり、数体の古びた木彫像が安置されている。寄木造の仏像は劣化の中で、さらに美しい輝きを見せていた。
秋草は枯れ、山が雪と氷に閉ざされるころ、アキチョウジの枯れ茎に霜柱がついた。それは花のように、雪原の奇跡のように美しく咲きほこる。
山村で見かけた木彫りの像である。どことなくユーモアがあり、力強く、素朴さを感じる。この木像も清貧の神々のひと柱に数えることにした。
山中の泉で撮影したアメンボウのすがた。森の微光の中で、アメンボウはその存在を知らしめるかのように、足をゆすり、青い波紋を造った。
壁面J
三日月の入りを長時間露光で狙った。出来上がった写真を見ると、月を横切る雲までもが筒状になっている。不思議な月の入りである。
祭り日、乙女たちの後ろ姿に興味をもった。明るい陽射しの中で揺れる髪飾り。ファインダーには黒髪と美しい日本の伝統美が映っていた。
壁面K
渓谷に咲き始めたアケボノツツジ。花はふくよかで清楚な気品にあふれている。春の原生林を最初に彩る美人の花である。
壁面L
3月は海は美しい。低気圧が去ると海は北風にかわり、激しい怒涛が海岸を洗う。中でも私は夕日に染まった赤銅色の波が好きである。
冬の遅い夜明けが始まり、7時過ぎにやっと太陽が顔をだした。朝日を浴びながら、ピーンと響くような大気のにおいを楽しんだ。
美しい水を求めてさまようと、最後はいつも原生林に入る。そこには、たいてい凄みをおびた倒木があり、古き神のように鎮座している。
落ちてなお、柔らかくかぼそい花芯を震わしている椿の花。やがて跡形もなく消えゆくこの椿を見とどけ、しっかり撮影しようと思った。
原生林を源とする川をさかのぼると、いつも爽やかな感動を受ける。生まれたばかりの紺碧の流れに出会えるし、ブナをかすめる風音も聞ける。
太陽が西の山脈に沈んでからどれくらいの時がたっただろう。ベールのような薄い雲の向こうに、つつましい三日月の姿があった。
壁面M
流れ落ちる水音が峡谷に響きわたって、上部から降り注ぐ青い光も神々しい。いにしえの人々が滝に水神や龍神を見出したのもよく分かる。
まっさらな水に出会うと深い森を想い、聖地のような森に入ると、清冽な水の姿を想像する。水と森は私にとっては同義語のようなものである。
森の奥にスダジイの倒木があり、主幹部の空洞に80余りのシイノトモシビタケが光っていた。洞が発光菌の菌床になっているようだ。感動的だった。
仁淀川のほとりに雪が降った。簡素な家並みの続く集落は静まりかえり、時おりヤマセミが高い声をあげて飛び去っていく。雪の日は平和である。
ツル性の植物の種子が陽光に照らされている。ざわざわと風がふけば種の編隊飛行が始まるだろう。稜線に太陽が近づき、おだやかな秋の日没が迫っていた。
壁面N
凄みをおびた月が連嶺をかすめてゆく。かすかにたなびく山霧とモミの林。原生林を横切る月影は思いのほか速く、一瞬のきらめきのように過ぎ去った。
仁淀川源流の水にカメラを入れた。水は冷たくウエーダーを通して寒さが伝わってくる。シンメトリックな水景と、拡散する光。水中は不思議な混沌にあふれていた。
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